アイドルと言う出力装置のこと、SHOCKと言う「舞台」のこと
「アイドルは出力装置である」が、役者でも歌手でもない職業に就く人を好きになったばかりの、私の定義でした。インプットがなければアウトプットはありません。脚本や、科白や、歌を体現するのは役者や歌手もそうですが、アイドルに入力されるのはそう言った表現手法だけではありません。「ファンの過剰な思い入れ」が、たとえアイドルご本人のあずかり知らないところであっても、その出力されるものに大いに関わると、思っています。
だから、ファンの思い入れと、入力される仕事が一致し、出力装置たるアイドルがそれを受け止め最大限に出力したとき、その表現の跳躍は、おそらく他のどんな職業の名人が作り上げるものとも違っているだろうと。


インプットと、出力装置と、アウトプット。


SHOCKの2幕の間中、そのことを思っていました。光一さんファンの方は、このSHOCKのことをどう思っているのだろうと。私は実際観るまで、「ファンがまさに観たい光一さんを観放題の3時間」と言うショウだと思っていました。評判に違わぬ、凄みと、楽しさと、美しさにあふれた舞台でしたが、それだけですませるには辛い舞台でもありました。光一さんについて、知識もなく、尊敬はしていても思い入れの浅い私でこうなのだから、全身全霊光一さんを好きな方は、これをどう受け止めるのだろう。
私の光一さん像は、パブリックイメージかつジャニーズ最下層目線的盲信も相まって、かなり偶像に近いです。SHOCKの間、客席から座長の仕草に「可愛い……」とため息のようなさざ波が広がるたびに、「おお、座長も「可愛い」の対象なのか!「格好いい」とか「すごすぎる」だけじゃないのか!」と驚いていたくらいですから。
仕事と自分に厳しく、理想は青天井、後輩の真似できない技に挑み、自分以上に自分の世界を表現できる人がいないから主演をやっているのであって、それがよりよいと思えればためらいなく裏方にまわれる人。それが私の思う光一さんです。
SHOCK前日にDVDの特典ディスクを視て予習をしていたのですが、階段落ちの後、後ろから完全に支えられて楽屋に移動する座長の姿に気圧されてしまいました。光一さんほどの人が、ここまで限界に挑んでまで作り上げているのがSHOCKなのかと。
そんな光一さんが演じる、まさに「死んでまで舞台に立つ」コウイチを、ただすごいとだけは思えない。もちろん光一さんとコウイチはちがう人です。実際観るまでは完全に同一視していたのですが、観劇後はそう思えませんでした。
コウイチは、光一さんのように座長として完全無欠な人かと思っていたコウイチは、もっと泥臭く周りの見えなくなるタイプでした。悪い意味じゃなく、親分肌と言うか、ざっくばらんと言うか、黙って俺に付いてこいタイプ。おそらくはリョウ以外のカンパニーの面々にはそれで良かったんだと思います。「ブロードウェイには魔物がいる」とわかりながら、その後オフブロードウェイに戻る気の無かったコウイチも、やっぱり足元が見えなくなっていました。「コウイチは暴走なんかしていなかった」とアキヤマは言いましたが、真剣を前にしてもショウを続けたコウイチはやはり身の内に狂気をはらんでいました。
光一さんは、そんなコウイチをまるごと演じられる、つまりその狂気すら内包して、それでも自分を制して極限の舞台に立てる方です。そんな光一さんの演じるコウイチはショウを続けるために命を落とします(正しくは意識不明になります)。いったん幕。それでもSHOCKは続きます。コウイチは病院で寝ていればいいですが、光一さんはまたよろめきながら楽屋に戻り、シャワーで血糊を落とし、衣装を着替えて幕が開きます。


今できる限りのパフォーマンスを最大限盛り込んだ、光一ワールドを体現する舞台と、それを表現しきる光一座長。最高のインプットと出力装置が揃って、アウトプットであるSHOCKという舞台は、数あるジャニーズ舞台の中でも他に類を見ないものになりました(後輩のファンとしては、「ジャニーズ仕事」は安心感のあるもののはずなのに、SHOCKはとにかく光栄だ大変だー! と思う)。
そこにもうひとつのインプット、観客の思いが込められた、観客ひとりひとりに千差万別の「SHOCK」は、どれほど壮絶なものになっているだろう。それこそ想像のつくものではありません。光一さんとコウイチを同一視しない方もいらっしゃるでしょうし、純粋に光一さんのパフォーマンスに見惚れる方もいらっしゃるでしょう。
それでもジャニオタとして、SHOCKの間の光一さんの体重に一喜一憂する気持ちが当然と思える私には、やっぱりただ楽しむ以上のものがあると思うのです。光一さんはそんなことを望んでいるんじゃないと、辛い思いをさせたり心配させたいんじゃない、楽しんで浸って感動してほしいんだとしても。
「なぜ走り続けるのか」の答えを、コウイチは教えてくれなかった、と解釈しています。走り方を教えることは出来ても、根元の「なぜ」に答えられる人は、結局いないんだと思います。「そこに山があるからだ」と同じで、あまりに当たり前すぎて舞台に立つ人には答えられないんでしょう。光一座長ですらも。
「なぜ」を教えるかわりに、ただそれを行うことを、渾身のちからで舞台を続けることだけをみせます。コウイチも光一さんも。その鬼神のごとき迫力でもって「なぜ」をねじ伏せ黙らせることだけが答えなんだと。


SHOCKが終わっても光一さんの人生は続きます。なんでも新作についてもご相談されているそうで、光一さんの生き方そのものが「Show must go on」にだぶります。帝劇を出て真っ先に思ったことは「なんて切ない舞台なんだろう」でした。コウイチとリョウの物語としての切なさだけでなく、舞台そのものが。でも切ないほどの思い入れがあって、ますますアウトプット=SHOCKという舞台が輝くのだとも、思いました。傷まみれの宝石が乱反射するように。