いそうろう

タモさん、と馴れ馴れしく呼びかけるあたりからもわかって頂けるかと思いますが、タモリ倶楽部を視るようになって以来私のタモリ・リスペクトの本気度は偉いことになっています。どんな特集のどんなゲストが来ようと、どんな道の達人も、かならずタモさんを見ながら喋る。メーンパーソナリティへの敬意と言うだけじゃない、どの人も、タモさんならばわかってくれるという確信に満ちてお話をされる。タモさんはどんなことにも興味を持って相応しい相槌を打つ。タモさんの博識ぶり、対象への敬意は惚れ惚れするばかりだ。


私が物心着いた頃にはすでにタモさんは「司会者」で、私はタモさんの「密室芸」を見たことがありません。でも、タモさんがなんかすごい芸をされる、と言うことは知っていました。それは、赤塚不二夫先生の手になる文章ひとつが根拠でした。


私は熱烈な藤子不二雄先生のファンで、ことに、トキワ荘に狂おしいまでの憧れを抱いていました。あの時代に生まれてトキワ荘に住みたかったと真剣に思っていました。別に漫画家になりたかったわけではないのですが。よくわからんこどもです。そしてその不可能な憧憬を「トキワ荘関連書籍を片っ端から読む」と言う方法で満足させようとしました。やっていることがいまとまったく変わりません。ちなみに9〜18歳くらいの話です。


その中の一冊、蝸牛社の『トキワ荘青春物語』に収録されている赤塚先生の「ボクの居候文化論」が、私にとっての「密室芸人」タモさんの唯一の印象でした。そしてこの文章は、私のトキワ荘への憧憬を明文化してくれていました。


赤塚先生ご自身のトキワ荘ぐらしの始まりが居候だった、と言う話に始まるこの文章の、タモさんの部分を一部引用します。

 時を経て、ボクの珍芸がテレビに引っぱりだされるようになると、芸能人とのつき合いも多くなっていった。そんな中でのボクの居候の傑作はタモリである。ヘッドスタッフの長谷邦夫が知らせてくれたのだが、歌舞伎町の小さなバーで、すごく面白い奴が毎晩珍芸をやってのけてるというのだ。珍芸とは聞きすてにできないので、早速長谷ととんで行くと、これは正に絶品だった。その週にテレビでボクの特番をやることになっていたので、有無を言わせずその男タモリをゲスト出演させてしまった。
(中略)
 とはいえ、タモリはそのままスターダムにのしあがっていったわけではない。山下洋輔のジャズ公演にくっついて、博多から上京してきたのだが、間もなく帰ってしまうというので、すごくもったいないと思ったボクは、自分のマンションに引きとめることにした。
 ボクの居候になって、飲みほうだい食いほうだいでのびのび過ごした。ボクは小遣いまでやった。とはいえ、どんな面白い奴でもたった二人だけになると、ボクは間がもたなくなる。ホモ同士じゃないから二人だけの気づまりな時間を怖れたボクは、ボロ仕事場のきたない床の上にフトンをしいて寝た。あの毒蝮三太夫さえインタビューにきて、そのきたならしさにタタラをふんだところだ。


そしてご自身の「居候文化」についての一部。

 ボクは“居候文化”というのもがあり、そしてあり続けるべきだという信条をもっている。売れないヤツが売れてるヤツのところに居候して、その間に学び、鍛え、充電する。
 居候させてるヤツは、なんにも言わず、それが当然のこととして面倒を見る。そしてその居候が世に出ることをもってお返しとする。

この文章を読んで、居候は、させる方に度量が必要なのはもちろん、している方にこそ器量と覚悟が必要なんだな、と思いました。赤塚先生がこの文章の終盤に書いているように「居候といっても、その立場に居ると心境は複雑で屈折したものとなる」であろうことは想像に難くない。なにより食べさせてもらっている状況で、「のびのび過ご」すことがどれほど困難なことだろうと。
居候させる方が、居候の才能を信じ、ただ将来のために有形無形の援助を当たり前にすること。居候する方が、自分の可能性を信じ、期待から逃げず、見込まれた部分を潰さず、援助を当たり前に受け取ること。
それがつねに機能していたトキワ荘が私の憧れでした。まっすぐな信頼とそれを受けとめる真摯さという居候文化こそが私の憧れでした。赤塚先生の文章はそれをすっきりと目の前に表してくれました。


赤塚先生が傑作と呼んだタモリさんは弔辞で、ご自身を先生の作品のひとつと表現されました。


私はタモさんを尊敬しています。


赤塚先生のご冥福をお祈りいたします。